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倉敷という人工地区の歴史的形成

倉敷といえば岡山で美観地区に設定されている。先日行ってきたのだが、やはりというかチープな観光地だという印象を受けた。全体的にそこそこ洗練されているのだが、観光客がごった返すという景観に美を見出すのは難しいだろう。この観光地化現象は倉敷だけではなく世界中で起こっている現象だ。

さて、今回はハリボテ化した観光地としての倉敷が、実際にハリボテなのかを検証しよう。そのためにまずは歴史を紐解いてみたい。

倉敷の歴史

倉敷市からは歴史に関する情報がパッと出てこなかったので、ウィキから拝借する。

この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年ごろの上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳

ここで出てくる吉備国というのがポイント。きび団子の国というわけではない。吉備国とは、古代日本における地方国家であり、ここ一体を支配していた。岡山の知識階級では常識レベルであり、岡山の機嫌を理解する上で大前提となる。この吉備国の海の玄関であったとウィキにはある。

飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。

この段階で吉備国は備のみが残ることとなる。備前、備中、備後、と現在でも3つのエリアに分かれている。これは倉敷市にお住まいのダンディなおじい様に実際に教えていただいたことだ。
備前とは備前焼で有名な地域であり、現在も備前市と名乗っている。倉敷はこのうちで備中に該当する。

倉敷地域倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。

ここで起源の確信へと迫ってくる。鶴形島なるものがその起源であると記載があるが、実際に鶴形山なる小高い小山がここにはある。

倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。

実際に倉敷、という名前は近世に登場するようだ。水夫が見られたように、流行り川が重要であるようだ。これは倉敷市のダンディズムさんも同じことをおっしゃっていた。さらに彼らは戦いに駆り出され、水軍としても活躍したようだ。

くらしき川舟流しという小舟の体験が今でも倉敷ではできる。

このように倉敷を理解する上で重要なのは、川であるようだ。

というのも、その当時はここらは島であったということを忘れてはないけない。

しかしある男の登場によって倉敷は大きく変貌することとなる。

陸を作っちゃう化け物

さて、次に近世へと移る。時は豊臣政権である。

倉敷一帯の島々は豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家が始めた干拓江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成された。

いやはや、権力とは恐ろしいものである。大きく地形すらも変えてしまうわけである。まるで神のごとき所業だ。

宇喜多 秀家といえば、幼少時代から秀吉に仕えていたことで有名である。彼が当時の備前を治めていたわけである。

戦国時代の統治は結局明治維新まで影響を与えるため、非常に重要なポイントとなる。

そして江戸時代に入る。

天領になった倉敷旧市街は高梁川児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になり、

天領とは江戸幕府の直轄地という意味である。それよりも重要なのは、倉敷川が作られた、という点である。

倉敷川とは今の倉敷美観地区の骨格とも言える川であり、現在も当然見ることができるわけである。

その倉敷川はなんと江戸時代に人為的に作られたというのだ。

やがて新田開発により埋め立てられた干潟の僅かな残りの部分が入江となり、海の潮の干満にあわせて船が行き来する運河として機能し始めたのが倉敷川の始まりと云われている。

恐るべき日本のインフラ力。現代でも世界旅行に行くと日本のインフラ整備には驚かされるのだが、近世にその実力はすでに発揮されていたわけである。

そのそも倉敷は人工的なものだった。

さて、もちろん昔の倉敷は実際に物流などの機能を持っていたわけだ。美観地区の倉敷川には当然その機能は今はない。それは観光客のための体験となっているわけだ。

しかしそもそも歴史を紐解けば、倉敷というのは人工的な地区であることがわかってくる。現在の倉敷も人工的に随分と手が入れらているが、それもまた大きな歴史的文脈の中で見れば、誉るべき事柄なのかもしれない。それは100年、200年後の人々が知ることであろう。

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