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目の前を対象にしてペンを持たずに書くということ

エクリチュールとはフランスの哲学書を読めば頻繁に目に言葉だ。フランスのみならずポストモダン以降に西洋系の本で頻繁に目にする。これはなんとも便利な言葉だ。というのも、書くこと、読むこと、文字の世界にどっぷり浸かった人間にとって、深い思考とセットにされた言葉と普段我々が日常で使う言葉との違いをエクリチュールはなんとなく代弁してくれるように思えるからだ。さて、考えるとはまさくこのエクリチュールである。

私はイタリアとパリを縦断したのだが、それは絵画の歴史を辿る旅であった。そのほとんどの絵画は私が写真ですでに知っていたものだ。この絵画を前にしてただ自分が感じることだけを重視しなかった。見て考えることを重視した。これは何か。考えれば考えるほど対象を分析するメソッドが自分の中に培われた。テーマ。構図。技術。精神性。時代性。モデル。それらをそれぞれ個別に分析していくのだ。

まず頭の中で言葉を書くことが重要となる。例えば最後の晩餐を前にしてこう頭の中で書くのだ。まずキリストが中心にいる、と。これは見れば当たり前のことだ。だが次にこういう問いが生まれる。なぜキリストは中心なのだろう。そしてそれ以外の登場人物の配置を確認する。それぞれが左右対称に並んでいる。しかし左右でポーズや質量など、それぞれズレが生じているのがわかる。左右で全く同じポーズや量であったら人間の脳は退屈を感じるだろうし、リアルを感じない。左右でズレを持たせながらも、左右の全体のバランスをとり、見事に調和をさせていることがわかる。そしてこの左右のどこを見ても自然とキリストへと目がいくことを発見する。その瞬間にこの絵画が宇宙的なバランス、数学的な正確さによる調和の取れた美を持っていることを発見し、吸い込まれるような眩暈を覚える。

頭の中で当たり前のことをあえて書くことによって、それは次の言葉を生み出していく。つまり文章が誕生する。これが論理であり、次へ次へとつながりを産んでいくのだ。それが新しい発見へと導いてくれることになる。考えるということはまさにセンテンスを紡いでいくことである。

書くというのは、そういった意味で未知への旅に似ているだろう。初めは当たり前の自分のホームから出発するのだが、自分の足で歩いていくと、さまざまな情報や標識を頼りにし、あるいはバスや電車などの手段を使用して、自分がしらかった場所へと辿り着くのだ。その先は満足することもあれば、失望する場合もある。しかしそこで自分がさらに頭の中で書くことをやめなければ、新しい地はさらなる未知の探究をもたらせてくれる。

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